BMWを経て、いよいよマツダへ
欧米人は背が高くて手が長いから、ボンネットの線もウインドウシールドの線もルーフの線も、ワンストロークで引けるんです。でも僕は、ツーストロークでしか引けない。だから、GMに入った当初は、他の人の3倍くらい作業に時間がかかっていたんです。でも、そのうちに効率の良い方法を考え出して、彼らに負けないくらい早くできるようになりました。しかしBMWに行ってみると、みんな作業をダラダラやってる。だから目に物を見せてやろうと思って、フルサイズのテープドローを4時間半で終わらせたんです。
次の日出社したらデザイナーは誰も挨拶してくれない。反面、モデラーはとても喜んでいるんです。聞けば、BMWのデザイナーはテープドローをするのに1週間くらいかかるらしく、それを僕が半日で仕上げたものだから、彼らの面目が潰れてしまったんですね。それで他のデザイナーからは疎外されてしまいました。
でも、素晴らしい出会いもありました。デザイナーのエルコーレ・スパーダ、彼とだけは仲が良かったな。BMWを辞めた後も僕の片言のドイツ語と彼の片言の英語で交流が続きました。
入社初日に部長が部内を案内してくれて、発表前の3シリーズを見せてくれて、「どう思うか」と聞いてきたので率直に「フロントとリアが別のテーマでうまく合っていないと思う」と答えました。フォード・フィエスタならそういったデザインもありなんですが、BMWなら絶対にそういうことをしないはず、不思議だ、と。
そのことについて後日スパーダに尋ねると驚いていました。最初は彼が担当していたけど、彼のデザインが次期5シリーズに選ばれてそっちの担当となって、3シリーズはフォードから移籍してきたボイヤー氏が担当することになったとのこと。結果としてフロントはスパーダの丸味、リアはボイヤー嗜好の四角いデザインになってしまったんだそうです。

マツダに移籍したきっかけはボブ・ホール氏からの一本の連絡でした。彼とはアートセンターに通っていた頃からの仲でした。LAショーの会場で日本語の車雑誌を読んでる不思議なアメリカ人がいて、声をかけたのが彼との出会いです。そのボブから、BMWで1年が経とうとしていた時に「マツダがスタジオを開くのにチーフ・デザイナーを探しているから、お前を推薦しておいた」と連絡があったんです。
その頃やっとBMWのデザイン開発スタイルにもなじんできたところでした。担当していた3シリーズ(E36)の初期デザインでも風洞実験を繰り返しておりましたし、スケッチ段階の8シリーズも私が手がけたデザインが最終案の一つに選ばれたところ。しかし、最初の就業ビザ取得時にBMW人事の日本人のビザ所得経験がなく戸惑ったこともあり、3年目のビザ更新に不安があったんです。
プロジェクトが軌道に乗っていよいよこれからという時にビザが下りなかったりしたら、BMWの足の長い開発プロセスや量産も見届けることが出来ずにドイツを去らなければならないかもしれないと考えると、今辞める方が後で妙な悔いを残さずに暮らせると考えました。
また、当初BMWで学びたかったデザイン寿命の長いデザイン開発の秘訣も十分に理解できましたし、空力も幸い月1,2回は実験させてもらったので、満足してBMWを退職しました。
一時帰国して面接のために五反田のスタジオに出向くと、広島から福田成徳さんが来て、待っていてくださいました。それが福田さんとの初めての出会いだったんです。

※次回「カーデザイナー・トム俣野とロードスター vol.4」は1月19日(金)の公開予定です。

俣野 努(またの・つとむ)
1947年長崎市生まれ、東京育ち。成蹊大学工学部を中退し、渡米。世界的なデザイナーたちの登竜門であるアートセンター・カレッジ・オブ・デザインへ入学し学位を取得。卒業後は1974年にGMに入社。オーストラリアのGM Holdenを経て、1982年にBMWへ移籍後は3シリーズを手がける。数々の実績が評価されマツダに招かれ、初代ユーノス・ロードスター、3世代目のRX-7(FD)のオリジナルデザインなどを手がけ、マツダの開発システムにも多くの影響を与えた。 2002年から、サンフランシスコにある美術大学、アカデミーオブアートユニバーシティの工業デザイン学部の学部長を勤めている。