【連載】カーデザイナー・トム俣野とロードスターvol.3 カーデザイナーの原点

Jan 12,2018interview

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Jan12,2018

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【連載】カーデザイナー・トム俣野とロードスター vol.3 カーデザイナーの原点

文:
TD編集部

初代ユーノス・ロードスターのデザインを手がけたトム俣野氏へのインタビュー。第三回はマツダに移籍するまでの俣野氏のあゆみを振り返る。デザイナーの素養を育んだ幼少期時代の話から、米・アートセンター留学時代の話、そしてデザイナーとしての海外自動車メーカーでの活躍に至るまで、当時のスケッチを見ながら語ってもらった。

2度目の受験に向けて薔薇の花をスケッチする日々

私にとって運が良かったのは、渡米後、同じ英語学校に通っていた友人のお兄さんがアートセンターに通っていたことですね。お兄さんに作品を見せたら「これはアートセンターが欲しがっているものとは違う」とバッサリ。アートセンターは手描きの力を評価するのに、きちんとした絵を描いたことのない私はグラフィックデザインを一生懸命作っていたんです。その後、彼のアドバイスで、手描きの力を培うために薔薇を1ダース買ってきて毎日毎日スケッチしました。薔薇がしおれたらまた買ってきて、また描く。薔薇が描けるようになったら次は革靴。彼から見るとひどい絵だったと思いますが「これだったら何とかなるかも」と認めてもらえるまで努力しました。

アートセンターにはポートフォリオとして作品を12点提出するんです。そのうちの6点まで仕上げたんですが、残りの6点のテーマが決まらない。当時はインテリア・建築のデザインがしたいと思っていたので机や椅子を描いていたら、お兄さんから「お前、他に何か描けないの?」と。「車なら描けるかも」と描いてみたら、彼の友人にトランスポーテーションデザインを専攻している人がいてその絵の感想を聞いてくれたんです。彼のアドバイスに従って何度か描き直した作品をアートセンターに提出したところ、2日後に合格通知がきました。後で知った話ですが、ポートフォリオを出したのは審査会の前日。偶然にしてはいいタイミングでした。

アートセンター在学中に最も苦労されたことは何ですか。

やっぱり英語ですね。宿題を出されるんですが、肝心なところを聞き漏らしたり聞き間違えたりしていました。例えば「グレーのグラデーションで」という課題が出されても、縦方向なのか横方向なのか肝心なところが抜けている。だからみんなと作品を比べると、僕だけ違うものを作っているんです。
「ショールームの中にある車」というテーマなのに僕の作品ではショールームの外に車があったり。文化の違いから生まれる勘違いもありました。レンダリングの宿題で「街の交差点を描く」というテーマが出された時、バスを描いたらドアが反対側についていると指摘されたんです。そういえば日本とは車線の進行方向が逆だということに気がつかず、目的地とは反対の方向へ向かうバス停で待っていたことも実際にありました。

アートセンター卒業後、GMで学んだプロ意識

余談ですが、アートセンター在学中には、藤本さんが、モジュラー構想を元にして作った私の作品をご覧になってくださいましたね。「何とか記事にしたいから、もうちょっと詰めてくれ」とおっしゃっていただき、嬉しかった記憶があります。

電気自動車時代の今なら当たり前のモジュラー構想ですが、ガソリンエンジンの時代に考える人は稀でしたね。CAR STYLING 15号で特集しました。
聞き手の藤本彰氏が手がけた『CAR STYLING 15号』(1976年7月1日発刊)。この頃から俣野氏と藤本氏の交流は続いている。
卒業後はGMに入社されましたね。

はい。アメリカでは、バスケットボールにしてもフットボールにしても新しいタレントを発掘するために企業が大学のスポンサーにつくんです。デザインの世界も同じで、アートセンターでの最後のクラスはGMがスポンサーになっていました。デザイナーとスタジオ・エンジニアのペアが隔週で学校を訪れ、学生はテーマに沿ってデザインを開発していきます。
このプロジェクトを通して学生に目星を付けるんですが、最終日にGMの副社長まで務めたチャック・ジョーダン氏が来ることを知ったんです。それでチャックがこれまでに手掛けた作品を研究し、前日にチャック好みの絵を描いて提出しました。そうしたら翌日の面接時に彼から「デトロイトに来いよ」と言われ、GMに入社しました。

1974年、デトロイトにあるGMに入社。俣野氏27歳。

当時のGMはビル・ミッチェルデザイン担当副社長のもとでレトロ方向のデザインを推していました。僕としてはもっとモダンな車をデザインしたかったんですが、第一次石油危機による縮小前のフルサイズの車をデザインする機会は、今考えれば貴重な経験でしたね。 正式な訓練といったものはなくいきなりスタジオ配属でした。ジョーダン氏の配慮で、GMでもトップ3のデザイナー、トム・センプル氏の隣の席が用意されました。

彼はGMで最も絵のうまい人で、僕はその隣の席で彼の絵を学ぶよう言われました。しかし彼は1枚素晴らしいレンダリングを描くと、次の日は会社を休んじゃうんですよ。優秀で完璧主義者でしたね。ちょっとでもマーカーがにじむと、7割くらい描けているレンダリングでも惜しげもなく捨ててしまうんです。また、プロデザイナーとしての誇りも高かった。僕が遠慮がちに紙の隅にサインを書いていたら「お前、プロだろう、サインはタイヤとタイヤの間に堂々と描け」と言われました。「紙の隅に書いていたら、雑誌に載った時には消されてしまうぞ」と。

1974〜75年頃に描かれたスケッチ(俣野氏提供)。確かにサインは紙の隅に書かれている。
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