【連載】カーデザイナー・トム俣野とロードスターvol.3 カーデザイナーの原点

Jan 12,2018interview

#Miata

Jan12,2018

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【連載】カーデザイナー・トム俣野とロードスター vol.3 カーデザイナーの原点

文:
TD編集部

初代ユーノス・ロードスターのデザインを手がけたトム俣野氏へのインタビュー。第三回はマツダに移籍するまでの俣野氏のあゆみを振り返る。デザイナーの素養を育んだ幼少期時代の話から、米・アートセンター留学時代の話、そしてデザイナーとしての海外自動車メーカーでの活躍に至るまで、当時のスケッチを見ながら語ってもらった。

まさかの南半球へ! GMホールデンへの移籍

その後、GMからGMホールデンに移られた。きっかけは何だったのですか。

GMで働いて半年くらい経った頃、学生ビザから就業ビザに切り換える書類の準備も整い申請手続に入りました。しかしほぼ同時にアメリカはオイルショックの影響で不景気になっていて。フォードやクライスラーがデザイナーを大量にレイ・オフしていたことなどから、「1年やそこらの就業経験ではビザを交付することはできない」と移民局から連絡がありました。

GMはそうした事情に配慮してくれて「別の国に行かないか」と提案してくれたんです。「オペルに行かせてくれるんだな」と早合点し、二つ返事でOKしたら、3日後にオーストラリアにあるホールデンへ行くよう言われました。南半球で働くという発想は自分の中で全くなかったので驚きましたが、ホールデンのディレクターのレオ・プルノー氏がデザイナー不足を嘆いていると聞き、自分が役に立つならばということでメルボルンに移ったんです。

1976年、オーストラリアのGMホールデンへ。俣野氏29歳。
ホールデンにはどれくらい在籍されたのですか。
6年半です。ホールデンではモデルチェンジも10年くらい無いのでのんびりと好きな絵を描くことができ、居心地は悪くありませんでした。
オイルショックの影響で自動車業界では空力特性が注目され始めていましたが、ホールデンには風洞施設がなかったので自分で空力を考えて描いていましたね。
カタマラン(双胴船)のように、空気は下から通って逃げ出すだろうとか、後部は高い方がいいからダブルデッキにしようとか。
ただ、当初の予定ではアメリカの景気が戻ったらGMに戻れるはずだったんです。ところが実際には第二次オイルショックも起こって簡単には戻れなくなりました。
それで転職先を探していたところ、当時オペルで働いていた児玉英雄さんから「アシスタントチーフのポジションが空いているからドイツに来いよ」と誘われたんです。児玉さんとは、オペルとホールデンのチーフ・デザイナー交換で来られていたときに、一年間同じスタジオで仕事させていただきました。
当時の写真(俣野氏提供)

そこでレオに「オペルに行かせてほしい」と頼んだんですよ。レオも「分かった」と了承してくれたからすぐに決まるだろうと思っていたんですが、一向に話がまとまらない。後日児玉さんから聞いたところによると、レオは「俣野はオペルに行きたがっているが、絶対に俺は手放さないぞ」と言っていたそうです。

当時のスケッチ(俣野氏提供)。この頃に学んだ製図の技術がこの後、BMWで活かされることになる。

それなら自分で道を切り拓こうと思い、妻がポルシェの大ファンだったのでポルシェに作品を送りました。運よく採用通知が届いて、詳細は追って人事から連絡がいくというと内容でした。ところがそこからの動きが遅く、結局丸一年待って、諦めてドイツフォードとBMWの採用試験を受けたら、両方とも合格しました。待遇はフォードのほうが良かったんですが、BMWには風洞施設があったのと、生粋のドイツメーカーのほうがデザイン・プロセスなどにおいて勉強になるだろうと考え、BMWに移籍しました。

実際、当時のBMWはサイドビューだけでデザインする、いわゆるカロッツェリアデザインなんです。そして、デザイナーの横には製図台があって、自分で製図もするんです。風洞実験のモデルを作るにしても、デザイナーが自分でクロスセクション(断面図)を描かないと作ってもらえない。ホールデン時代に製図の勉強をしていたので対応できましたが、GMでずっと働いていたら、とてもできなかったでしょうね。アメリカではデザイナーが製図までする文化はありませんから。

1982年にドイツBMWへ移籍。俣野氏35歳。
BMWを経て、いよいよマツダへ

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