『田中小実昌エッセイ・コレクション』モノローグ|語りかけてくるモノを見つめて vol.2

May 20,2020column

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May20,2020

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『田中小実昌エッセイ・コレクション』 モノローグ|語りかけてくるモノを見つめて vol.2

文:
TD編集部 有泉 伸一

ふとした瞬間に語りかけてくる「モノ」たちがある。つい触れたくなる、誰かに伝えたくなる ー そんなモノたちと、それにまつわるエピソードを一口サイズでお届けしよう。

『田中小実昌エッセイ・コレクション』

「指一本、酒一升」「醤油に浸した輪ゴムを噛んで酒を呑む」。
金がない時にツマミなしでいかに酒を呑むか。そんな他愛もないことを繰り返し得意気に話してくれたのは、酔っぱらった父だった。子供だった僕はグラスになみなみと注いだ水を日本酒に見立て、醤油味の輪ゴムを噛んでは、父の真似をしてグラスの水をキューっとあおり、2人でゲラゲラと笑った記憶がある。

「『醤油に浸した輪ゴムを噛んで酒を呑む』は、田中小実昌の発案だよ」と教えてくれたのは、カウンターで隣り合わせになった、僕より少し年上に見える三つ揃えの男だった。渋谷の「かとりや」だったか新宿の「ぼるが」だったかは忘れてしまったが、まだ高幡不動に住んでいた頃なので、30歳手前ぐらいの頃だ。

田中小実昌(コミさん)のことは、晶文社から刊行されていた「コミマサ シネノート」「コミマサ ロードショー」で知っていた。僕より上の世代は植草甚一(JJ氏)だろうけど、僕はコミさんの映画の話が好きだった。作品のセレクトもさることながら、映画館までの寄り道・道草の話に夢中だった。コミさんと一緒にバスに乗って名画座に向かい、途中商店街をうろついて弁当を買い、二本立てを観て、場末のスナックで感想戦を交わしている。そんな気分にさせる軽やかさがそこにあった。

三つ揃えの男はコミさんの熱心なファンだった。コミさんの帽子は「イスラムワッチ」と呼ぶのだとか、早川ポケットミステリーのカーター・ブラウンシリーズはコミさんの翻訳が秀逸だとか、短編小説の「ポロポロ」の素晴らしさだとかを熱弁していたが、しまいには酔っぱらって「仕事を辞めてコミさんのように生きたい」とグスグスしはじめたので、そそくさと退散した。
その後、彼を思い出して何冊か読んだけれど、残念ながら僕は「ポロポロ」を始めとするコミさんの小説はあまり好きではなかった。

目黒に引越してすぐに、坂の途中の古本屋で、ちくま文庫の「田中小実昌エッセイ・コレクション/旅」と出会った。コミさんが亡くなったことは知っていたけれど、選集が出ていたことは知らなかった。2回配本で全6巻刊行されていたようだ。

ひと・旅・映画・おんな・コトバ・自伝。
パラパラめくると懐かしいあの頃のコミさんがそこにいた。何にもとらわれないコミさんが。

その後も古本屋を巡りながら1冊ずつ買い揃えたのだけれど、遊びに来た友達が持って帰ってしまったり、呑み屋に忘れちゃったり、豪雨のテントの中で水没したりと、まったくもってこの本はコミさんのように、すぐにあてもなく彷徨ってしまう。そのたびに買い足すのだが、いま手元にある6冊もいつ出かけてしまうことやら。

「自粛」が解除されたら、のんびりと店を見て歩く楽しみを思い出そう。
なんでもネットで検索して買ったり、なんでも予約したりする時代だけれど、オウチでじっと我慢していたのだから、軽やかな気分で街をウロウロするといい。

検索なんかして目的地まで向かうのはつまらない。バスに乗って気の向くまま寄り道しよう。名画座はほとんど無くなってしまったから、商店街に昔からある古本屋で道草を食おう。
そう、コミさんのエッセイを探してみるといいよ。きっといい店主がいる古本屋の棚で見つかると思うな。(おしまい)

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田中小実昌エッセイ・コレクション』(田中小実昌 著, 大庭 萱朗 編  筑摩書房

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